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https://youtu.be/IvoM1YFE8Ro
おはようございます、Asadaです。
きょう も がいこくじん の かた が にほん の こと で ふしぎ に おもって いる こと を せつめい します。
がいこくじん の かたがた は、でんしゃ や えれべーたー の なか で じぶん の くに より しずか と かんじる よう です。
われわれ にほんじん にとって は ふだん の こうけい に なって います。
これ は たにん に めいわく に ならない よう に はいりょ して いる ため です。
たとえば がっこう で じゅぎょう の さい に しずか に する こと により、せんせい の いう こと を はっきり ききとれる よう に きょういく されます。
では なぜ そのような きょういく を される か を わたし なり に すこし かんがえて みました。
これ は にほん の ぶんか に えいきょう されて いる と わたし は かんじて います。
にほん の ぶんか では たにん と の ちょうわ を じゅうし して います。
しずか で れいぎただしい ふるまい を する ひと が おおい です。
そぼう な ふるまい は めだち、このまれません。
それと どうよう に おおきな こえ を だす こと も このまれません。
おおきな こえ を だす こと が あれば なにか わるい こと が おこった の か と、つい そちら を みて しまう ひと が おおい です。
また、ばあい によって は、わるい ひと と おもわれて しまう ばあい も あります。
たとえば くるま で くらくしょん を ならす こと も このまれません。
この ひとつ の りゆう は さいがい の おおい にほん で、なにか さいがい、じこ、じけん が おこった の か と そうぞう して しまう ひと が おおい のでは ない か と おもいます。
また なぜ しずけさ が じゅうし されて いる か を かんがえて みる と、にほんのしゅうきょう に たいし かんがえ が およびます。
にほん の しんどう 、ぶっきょう では しずけさ を もとめられます。
これ は わたし の かんがえ です が、これら の しゅうきょう では いのる こと や ないせい を する こと が あります。
その さい に は まわり が うるさく て は とても そんな こと は できません。
そして そのような こと は さきほど の れいぎ として の ひとつ に なった の では ない か と おもいます。
わたし にとって も じんじゃ や おてら は すきな ばしょ の ひとつ です。
けいだい は つねに きれい に せいび されて いて かぜ の おと しか きこえない ような しんせい な くうかん です。
にほんじん の にちじょう の ちょっと した たび で じんじゃ や おてら に いく こと は きわめて ふつう な こと です。
ちなみに わたし は よこすか に すんで います が、かまくら の つるがおか はちまんぐう には ねんに し、ご かい は いき ます。
さらに にほんじん は ふるく から のうこう みんぞく です。
このため たにん と の ちょうわ は とくに ひつよう に なります。
この ちょうわ を たもつ ため に ひと が はなす とき に は それ を しずか に きく という こと が ぶんか として ていちゃく したよう に おもえます。
また、にほん は やま や うみ に かこまれた とち です。
その しぜん の しずけさ を このむ よう に なって いる と おもいます。
わたし じしん も やすみ の ひ は ちかく の うみ に さんぽ する こと が だいすき です。
しぜん の なか に み を おいて、しずか に ひととき を すごす の は じんせい に とって も ゆたか な じかん だ と かんじて います。
そして そのような しぜん な かんきょう を じぶん の まわり に なるべく さいげん したい という おもい も ある の か と おもいます。
もちろん これ は わたし が おもって いる こと です ので、にほんじん ぜんたい が そう と おもって いる か は わかりません。
あくまでも わたし の いけん として かんがえて いただければ うれしいです。
きょう も さいご まで ごらん いただき ありがとうございました。
また らいしゅう おあい する の を たのしみ に して います。
それでは、さようなら。