きょうは「せんぱい」というテーマでおはなしをします。
せんぱいはねんれいやけいけんがじぶんよりうえのひとをけいいをこめていうそうしょうです。
かいしゃにはいったしんにゅうしゃいんは、まわりちゅうがせんぱいということになります。
じぶんとおなじとしにはいったひとは、どうきということはいぜんおつたえしました。
では、じぶんより1ねんいじょうあとにはいったひとはなんというでしょうか?
これはこうはいといいます。
ところで、わたしはせんしゅうどようびにどうきかいにさんかしました。
このときには、10ねんいじょうあっていないめんばーもいて、ひじょうにたのしかったです。
ところが、こんしゅうかようひには、わたしのそんけいするせんぱい2めいからめーるとでんわでれんらくがありました。
もうかいしゃをたいしょくしてから5ねんはたちましたので、れんらくをいただけるのはすごくうれしかったです。
わたしのきんむしていたかいしゃは、じどうしゃぶひんめーかーでした。
ひとりはこのときのざいりょうかいはつぶしょのかたで、もうひとりはせいさんぎじゅつのほうでした。
にほんのおおくのたかいやくしょくのかたは、そのけんいをつかいじぶんのいけんをおしつけようとします。
ざいりょうかいはつぶしょのかたは、ぶちょうというやくしょくにもかかわらず、おおくのわかいかたがたとふつうにはなせすようにつねにはいりょするほうでした。
いいかたをかえると、だれでもがそのほうとはなしがしやすいかたでした。
わたしはもそのようになりたいと、おもいおなじようなこうどうをいしきしていました。
いっぽう、せいさんぎじゅつのかたは、ひじょうにゆうきのあるほうでした。
かれがわかいときに、とうじのこうじょうちょうがこうにゅうをしじしたないようが、こうじょうちょうこじんのためのものでした。
しかし、かれはそれをみぬき、しじをきょひしました。
そのえいきょうとおもいますが、こうじょうちょうはかれをれいぐうしました。
そのため、かれはかんりしょくになるがおくれました。
わたしがあめりかこがいしゃではたらいているときに、かれはわたしとおなじかいしゃのめきしここがいしゃにいました。
そのときに、めきしこでせいさんするあるぶひんをあめりかではんばいするびじねすがきゅうにきまり、かれとしごとをしました。
わたしはせっけいかいはつしゃとして、かれはそのぶひんのせいさんぎじゅつとしてのしごとでした。
ひじょうにたんきかんで、しかもせいさんほうしきもめきしこどくとくのこうほうでした。
しかもしゅるいがすうじゅうしゅるいもあり、とうしょはたんきかんでできるとはおもえないしごとりょうでした。
しかし、なんどもめきしこにいき、かれときんみつにれんらくをとり、なんとかせいひんをはんばいすることができました。
もちろんかれいがいにもいっしょにしごとをしたあめりかのせいさんかんりのかた、えいぎょうのかた、そのたおおくのかたがたのきょうりょくはありました。
わたしのもっともじゅうようなしごとは、あめりかのせっけいしゃにめきしこどくとくのこうほうが、ひんしつにもんだいないことをせつめいすることでした。
そのてんにおいて、せいさんぎじゅつのかたのきょうりょくがもっともじゅうようでした。
とくに、めきしここうじょうのせいさんぎじゅつとひんしつぶしょのかたがたへ、このむつかしいしごとをやるためのもちべーしょんをあたえることがたいへんであったとおもいます。
しかし、ひじょうにたんきかんでのようぼうにたいし、つねにたいみんぐよくこうどうしていただきました。
そして、かれからのじょうほう、じょげん、きょうりょくとうによりこのびじねすをすたーとすることができました。
いまでもかれにはおおきなかんしゃをしています。
じつはわたしが、かれのわかいときのこうじょうちょうとのやりとりをきいたのは、そのしごとのあとでした。
しかもべつのひとからきいたことでした。
そのようなてんもわたしがそんけいするてんです。
いずれにしても、このおふたりのほうかられんらくをいただき、わたしはほんとうにしあわせをかんじます。
たいしたこともしていない、わたしのことをおぼえていてくれたことにこころからかんしゃしています。
あなたも、このようなせんぱいはいるでしょうか?
もしいたら、おしえてもらってもよいですか?
きょうはここまでとします。
またらいしゅうおあいしましょう。